第13章 桜の季節

やがて、桜の季節になった。

 

 彼は、ずっと前に自分が見た夢の話を始めた。

 

「夢の中でオレは、すでに歳を取っていて、隣には美人のアンドロイドのナースがいた。

そこは病院の個室で、桜が散っているのが見えてた。

自分がもし死ぬとしたら、そんなのが理想だ。あ。もしかして、あのアンドロイドって、ルーシィ?」

 

「そうかも。でもそんなの、まだずっと先の話だからね。」
と、私は答えた。

 

すると彼は、私に手のひらを見せた。


彼の右手の生命線の膨らみの途中には、灰色の点があった。

 

「これの意味を、前に教えてくれただろ?」

私は少し嫌な感じがして、すぐには答えなかった。

「たしか病気の印だったよな?」

私は、彼が何を言おうとしているのか察した。

 

「そうだけど。でも、前より薄くなってる。大丈夫だよ。」

「今だと思うんだ。」

 

腹水のせいで、彼の動作は鈍くなってきた。
「腹水が溜まると、余命は3ヶ月だって。ネットで調べたら、書いてあった。」
彼は、淡々と言った。

 
私は、すねた子供のように首を横に振った。

「大丈夫だよ。」
大丈夫、という言葉を、心の中で私は呪文のように繰り返していた。

 

「大丈夫。ここから良くなるんだから。ミッキーは治るんだから。」

 

私は、出来るだけ前向きに考えようと決めていた。

悪い想像をすれば、それが現実になってしまうのではないかと思い、すぐにイメージを削除することにしていた。

 

「絶対に諦めないって約束して。」

 

「諦めるも何も。オレの人生において、今がどういう意味なのかを理解すれば、人から見て諦めた様に見えてもオレにとっては今が最高。だから、そう言われると、違和感が湧く。」

 

私は、その言葉に救われた気がした。

 

「そっか。私も、今が一番幸せ。だって毎日会えるから。」

 

 

けれど現実に、彼の体は以前に比べて痩せてきた。

体力も徐々に衰えてきて、病室の中を歩くのがやっとの状態だった。

動くと息苦しさを訴えた。

食事をした後も、しばらく安静にする必要があった。

 

発熱が続くようになり、夜も眠れていないようだった。

体を冷やすと痛みが出るというので、熱湯で湯がいたタオルをビニール袋に入れて、幾つかを背中に当ててやった。

「あったかい。温泉に入ってる気分だ。」

と、彼は言った。

生姜パックもアロママッサージも、出来るだけ毎日施すようにしていた。

 

そうして1日の終わりに、彼は必ずこう言った。

「今日もありがとう。」


彼はよく、私の体調を心配していた。

 

仕事のある日には、午前中と夜の2回、休みの日は一日中、彼の病室に通っていた。

 

彼の事を最優先にしていたため、夜遅い仕事は断る事が多くなった。

休みの日も以前より増やして、出来るだけ彼の体のケアが出来るようにしていた。

 

仕事を減らした事で、経済的には苦しくなっていた。そんな私を、彼はいつも気にかけていた。


そしてある日、彼がいつになく、厳しい口調で言った。

「お前は、もっと勉強しなきゃな。」

それから、静かに続けた。

「この仕事で経営者としてやっていくには、世の中の常識的な事を、もっと知る必要がある。体についての知識も、もっと勉強しないと。

お客さんに聞かれて、答えられないようじゃ、そのお客さんは、もう来ないよ。

今までと違って、お前はこれから、自分の力で食べていかなきゃいけないんだぞ。」

 

私は、ショックを受けた。


毎日出来るだけ彼のケアをしたいという気持ちと、生活のために仕事をしなくてはならないという葛藤の中にいた。


彼と過ごせる時間が、後どれくらい残されているのか分からない中で、焦りと不安に押し潰されそうになり、彼のそばを離れる事が出来なくなっていた。

 

「何で、今そんな事いうの?」

私が、こぼれそうになる涙をこらえて訊ねた。


「お前に必要な事を教えるのが、俺の役目だと思ってる。」
と言った。そして、
「俺が言うことに、いちいち泣いてたら、これから大変だぞ?」
と言った。

 

「まだ泣いてない。」
その時の私は、少し感情的になっていた。
私は、口を尖らせて言い返した。

「今までいろんな事を後回しにしてきた。仕事の事も、自分の事も。もう少し仕事に時間を取りたいし、勉強だってしたいと思ってる。そうしないと、そろそろ生活も出来なくなるし。」

「遅いくらいだよ。」
と、彼は言った。

「本当なら、もっと早くそうすべきだった。お前は、俺にエネルギーを使い過ぎてる。俺は、お前を養うことは出来ないし、自分だって、いつ破産しなきゃならないか分からない状態なんだから。」

そして、最後に彼は静かに言った。


「愛と愛情は違うんだよ、ルーシィ。」

 

その時、ようやく気づいた。

言葉は厳しくても、これは彼なりの愛なんだ。

 

「分かってる。あなたに責任とってなんて、言わないよ。ここに来るのだって自分の判断で来てるんだし。

大丈夫だよ。」

 
その日、家に帰ってから私は、自分が感情に任せて彼に言ったことを後悔していた。

 

あの言い方はまるで、彼の存在が私の重荷になってるかのようだった。彼を傷つけてしまったのかもしれない。

 

翌朝、私は彼の病院に行く前に、ラインを送った。


「昨日、わかった事がある。

あなたが私にとって、元気の源だって事。

 

今日あれ持って行こうとか、あれやってあげなきゃって思うことで、私は力が湧いてくる。

 

そりゃ人間だから、私も時々体調悪くもなるし、虫の居所が悪い時もあるけど、それを自分のせいだと思わないでね。

いつもあなたの事を考えてる。

 

なんか面白い事があったら言ってやろうとか、
綺麗な景色を見たら、写メ撮って送ろうとか。


そんな独り言に気づいたのは、じつは、あなたが鹿児島の病院で意識朦朧の時。

 

ラインが返って来ないのに、伝えたい事がどんどんたまって。

 

自分がどんなに、常に意識の中で、そこにいないあなたと会話してるかって事に気づいたの。

 

だから、どんな事があっても、あなたを守りたいと思ってる。

あなたの方こそ、私を生かしてくれてる。」

 
メッセージを送った後で、私は改めて、自分の事を振った。


彼と一緒にいられるのが幸せだった。

私はここにたどり着くまでに、多くを手放した。

だから今度は彼と、新たな人生を築いていきたいと強く思っていた。

彼の回復を信じたかった。
でも、彼の体の変化を見ていると、辛くて仕方がなかった。

 

このまま彼がいなくなってしまったら、どうやって生きていけばいいのか、わからない。


私は、声を上げて泣いた。

しばらくの間、涙が溢れて止まらなかった。

 

私は、彼の病気の事で泣く事を、ずっと自分に禁じていた。

私が泣いてしまったら、彼がもっと辛い思いをする。

そう思って、絶対に泣かないと決めていた。

 

けれど、今日だけ自分に泣く事を許そうと思った。気が済むまで泣いて、彼の前では笑顔でいられるように。

 

彼が、同じように泣いているイメージが浮かんできた。

私の想像の中で、自分たちの運命を嘆くように、彼と抱き合って泣いた。

 

 

しばらくして、涙を拭いてから鏡の前に立ち、化粧を直している時、どこからともなく、尋ねる声が聞こえた。

 

「もし彼が亡くなったら?」

 

その声の主は、誰だか分からなかった。

 

「彼がなくなるなんて、あり得ない。

でも、もし亡くなってしまったら、

その時は、、、、

私の、守護天使になってほしい。」

 

そんな事を、彼の前で言える訳はなかった。

彼の回復を一番願っているはずの私が。

 


その日の夜、病院に行った時、彼がぽつりと言った。

「俺、今朝、看護婦さんの前で号泣しちゃったよ。」

彼は、決まり悪そうに続けた。

「朝の検温の時、ツライ?って聞かれて。いつもはイタイ?って聞くのにさ。なぜか今日は、ツライ?だった。

答えようとしたら、涙が止まんなくなって。

だってさ、お前に言えないだろ。

治るって信じて、毎日3時間も4時間もマッサージしてくれてるのにさ、ツライなんて言える訳ないだろ?」

言いながら、彼は泣き顔になった。

 

「看護婦さんも、もらい泣きしてさ。2人で抱き合って泣いてたんだ。

でも途中から、何でオレ、この人と抱き合って泣いてんだろうって、、、」
笑った彼の目から、涙がこぼれた。

 

「今朝私も、同じ時に泣いてた。家で1人で号泣してた。その時イメージの中で、あなたと抱き合ってた。リンクしてたんだね、きっと。」

私も泣きながら言った。

 

「なんだ、そうか。お前も、ツライんじゃん。ずっと、無理してたんだよな?ごめんな。」

 

このまま彼を失ってしまったら、どうしよう。どうやって生きていけばいいのか、分からなくなる。

そんな不安を、ずっと押し殺して、彼は治るんだと自分に言い聞かせてきた。

カタルシスだ。」
と、彼は言った。

「きっと、これもお互いにとって必要だったんだ。」

 


数日後に、アシュタールのセッションを控えていた。2週間前、彼の強い希望で申し込んでいた。
けれど、彼の今の体力では、セッション会場に行くための外出が難しくなっていた。