第14章 奇跡

アシュタールセッション前夜、彼の体調が心配で、私は病院に泊まることにした。

 

前日の夜、一人でトイレに行こうとして、転んでから、右腕の自由が効かなくなっていた。

 

ここ1週間くらいで、彼はもう自分で立ち上がることも、ベッドから起き上がることすら出来なくなっていた。


背中の痛みと息苦しさに襲われ、夜もほとんど眠れていなかった。

彼が体を動かそうとする度に、起きて介助をする必要があった。

 

「もうお前がいないと、何にも出来ない体になっちゃったな。ほんの少し前までは、もっと動けたはずなのに。」

その事に、彼はショックを受けていた。

 

夜中に、何度もナースを呼んだ。
トイレの介助も、私1人では、背の高い彼の体重を支えきれなかった。

 

痛み止めを飲んでも、息苦しさは、いつまでたっても取れず、私は彼の体を温めたり、アロマの塗ったりと思いつく限りに試みた。


彼に必要なケアが、もう私の出来るレベルではなくなってきている様な気がして、私は絶望的な気持ちになっていた。

 

その時、暗い病室のベッドの上で、彼が絞り出すような声で言った。

「絶対に良くなる。絶対に。」

 

その言葉を聞いて、私は気づいた。

彼は、まだ希望を捨てていない。
私は、こんなに強い人を見た事がなかった。

 

息苦しさに耐えながら、彼は言った。

「どっかに、俺が治る方法があるはずだ。」

こんなに苦しいのに、光を見出そうとしている彼のひたむきな姿に、私は感動していた。

彼の回復を信じようと思った。

 


気がつくと、朝が来ていた。彼が、

「熱いレモンティーが飲みたい。」
と言った。


カップに2人分のレモンティーを作って、彼と飲んだ。

 

少し落ち着いてきた彼を見て、私は、一旦家に帰って着替えて来ると告げた。


家に帰ってシャワーを浴び、着替えてから、少し横になった。

ゆうべ寝ていなかった事もあり、うとうとまどろんでいた時、彼の電話から着信があった。


電話口は彼ではなく、ナースだった。

「1人で行っておいでって言ってます。そう伝えれば、分かるって。」

 

アシュタールセッションの事を言ってるんだと、すぐに分かった。

さすがに今日の外出は無理だろうと思った。

彼は自分の代わりに、私にセッションを受けさせようとしていた。

 

けれど、すぐにまた会えるのに、なぜわざわざ電話をかけてきただろう。

電話を切ってから、再び横になったものの、胸騒ぎがして、すぐにまた病院へ戻る事にした。

 


彼の病室に入ろうとする私を、看護師長が呼び止めた。


「ちょっと、いいですか?」

嫌な予感がした。


「彼が、痛み止めの注射を希望しています。ご家族の同意が必要なので、今、お母さんとご親戚に連絡して、来てもらっているところです。」

 

彼は、私が帰ってから、急に血圧が下がり始め、体内の酸素濃度も低い状態が続いていた。


病室に入ると、点滴を受けながら、酸素マスクをしている彼の姿が見えた。

「ルーシィ、遅いよ。ずっと待ってたんだ。」
彼は少し、甘えたように言った。

「ごめん。」


彼のそばには、常にナースが付き添うようになっていた。

 

しばらくして、彼の母親と親戚が到着した。

鹿児島から帰って来て以来、彼の母親にも紹介してもらい、家族のように大切にしてもらっていた。

 

私たちは、主治医のドクターから別室で話を聞くことになっていた。
ドクターは、モルヒネを使うようだった。

そして、言葉を選びながら言った。

 

「人によっては、このまま意識がなくなってしまう方もいます。万が一の事も考えられますので、覚悟をしておいてください。」

 

私は、納得出来なかった。

「本当に彼は、そんな注射を望んでいるんでしょうか?彼は治るつもりでいるんです。もしかしたら死ぬかも知れないような物を、打ってくれと言うはずがありません。」

「では、本人の前で聞いてみますか?一緒に来てください。」

ドクターは、私を連れて行き、彼の前で尋ねた。
彼は、息も絶え絶えの状態で、

「まだ打ってないの?早く打ってくれ。」

と言った。


私は、激しいショックを受けた。
けれど同時に、彼が望んでいるなら仕方がないと思った。

自分に処方された薬を、一つ一つネットで調べていた彼が、モルヒネを打つとどうなるのかくらい、知らないはずがなかった。


病気の痛みも息苦しさも、本人にしか分からないものだった。

だからこれ以上、私が抵抗する事が、彼の苦しみを長引かせるのだと悟った。


ただ彼は、決して諦めた訳ではなかった。

意識を保ったまま、目と指で合図して、私にしてほしい事を伝えてきた。


彼は、まだ生きる望みを捨てた訳ではなく、ただ、今の息苦しさを取り除いてほしいという一心で、モルヒネの注射を望んだのだと理解した。

 

モルヒネへの移行がうまくいけば、意識は朦朧とするものの、起きて話をするほど回復する人もいると、ドクターから聞いていた。

 

私は、奇跡を願った。
宇宙中の全ての光の存在に呼びかけ、彼を助けてくれるよう祈った。

 


けれど、もう彼の体力には、限界が来ているようだった。
モルヒネを使い始めて数時間後、彼の手は、すっかり冷たくなっていた。

体のあちこちには、血行障害が起き始めていた。

その彼の手がゆっくりと動き、私は、彼が何かを言おうとする気配を感じ取った。


私は、彼を仰向けに支えながら起こした。

ずっと酸素の吸入をしていたせいで、彼の唇はすっかり渇いてしまっていた。

 

私が、「お水飲む?」と尋ねると、彼はわずかに頷いた。


そして、ストローのついたペットボトルを彼の口元に持っていった。

けれど、彼は飲もうとはしなかった。

ストローを歯で噛んで、離さなくなった。

それまで虚ろだった彼の眼が、大きく見開き、
中空を見ていた。

彼は、その瞬間、何かを目で追っていた。

私は急いで、ストローを外して、酸素マスクを彼の口元に近づけた。

 

「お母さん、ミッキーが、息してない。」


私は、そばにいた彼の母親に告げた。
そして、ボタンを押してナースを呼んだ。

 

「お願い。息して!」


私は、必死で何度も彼を呼んだ。
彼は、私の呼びかけに応えるように、何度か息を吸おうとした。

けれども、徐々に目の色が失われていった。

 

その瞬間、私をとりまく世界が、止まってしまった。
彼はまるで、眠っているようだった。

本当に安やかな顔だった。

私は彼の心臓が止まっても、しばらくの間、彼の口元に酸素マスクを近づけたままだった。 


ドクターが来て、彼の死を告げた。

看護師長が、本当ならもっと早くこうなってもおかしくない状態だった、と言った。

 

彼の血圧を最後に測った看護師が、30しかなかった、と言った。

本来なら昏睡状態になる程なのに、彼は最後まで意識がしっかりしていた。

「こんな事、普通だったらあり得ないです。でも彼は、本当に頑張ってましたよ。きっと、彼女さんがいてくれたから、ここまで頑張れたんだと思います。」
彼女は、目を潤ませながら言った。

 

その時、私は悟った。

奇跡は起きていたんだ。

それも、毎日のように。

 

彼は、毎日、奇跡的に生きていた。

私に応えるために。

私のために。

 

桜は、もうすでに散ってしまって、青葉の季節になっていた。